なんで、結局死んじゃうんだろう。
精一杯生きても、後ろ向きに生きても、定められた寿命でこの世を去っていく。残される者は辛い。去る方も怖い。
死なんてなければいいのに。
死のない世界。
死なないのだ。どんどん歳を重ねて行く。100歳。200歳。死なないのである、西暦と同じなんて人も出てくる。デーモン小暮みたいなのがゴロゴロいるようになる。
人工も爆発するだろう。増えるのに減らないのだから。家からヨークフーズまで買い物に行くにも、玄関出てから満員電車のような状態だ。出掛けるのも帰るのも、ひと苦労だ。自転車は、売れなくなるだろう。道路だけは、法律で何とか守られるかもしれない。それでも人口が増え続ければ、道路でさえも、歩道にならざるを得なくなるかもしれない。大量殺人も増えるかもしれん。物騒な世の中になる。
これはまずい。やはり人口には限界がある。減らさないのなら、増やさないようにしないと。
もう、生まれないのだ。人口が理想的な定員になったところで、子供は生まれなくなる。
すでに生まれている人は、死なない。しかし老いてデーモン化が進めば、世の中じーさんとばーさんだけになってしまう。それもどうなのか。
なら、ある程度の年齢で、成長が止まるというのはどうか。
一番いい年齢とは、どのあたりなのだろうか。30歳ぐらいにしとくか。
しかしみんなそこで成長が止まってしまったら、世の中はいずれ、30歳だらけになってしまう。年寄りだけになるよりはいいのかもしれないが、全員30歳というのもどうなのか?
私達は、足りないものを補いながら、助け合って生きる生物ではないか。幼く至らないものを助け、老いて失っていくものを助ける。
ならいっそ、成長というものを止める。人口が理想的な定員になった時点で、人の成長が止まる。
これは不平等だぞ。その日に生まれた赤ちゃんは永遠に赤ちゃんで、永遠にオギャーだ。そしてその母親も、永遠に授乳してオギャーを聞き続けるのだ。子供の成長を見られないで世話をするだけなんて、ただの苦行ではないか。
瀕死の重病人も然り。その苦痛が永遠に続くのだ。
若くて元気なうちはいい。しかしそんな人ばかりじゃないはずである。
やはり子供は成長するべきであり、老いた先にあるのは死なのだ。人は生まれなくちゃいけないし、死ななきゃいけないらしい。
なんのために?
誰も知らない。
滑稽だ。誰も知らないで、この世の中に生きているのだ。茶番だ。
それでも一生懸命生きていかないと、生きることに脱落する。シビアな世界だ。
じゃあなんで、そんなに生に執着する?
死ぬには苦痛があるし、その先のことが分からないという不安も大きい。
この世界を作った人が考えた、枷だ。うまいことやりやがる。
何やら大きな課題を与えられているような気がしなくもないが、それは漠然としていて、形を成さない。
そんな訳の分からない宿題など取り組む気にならないというのに、「これでいいのか」と自分に問わずにはいられなくなる。
やはり生きることは修行だな、と思う。たぶんその重さは平等だ。ただ、どう向き合うかは自由。
正面からちゃんと向かう合う苦痛の方が、逃げた後に回って来るツケより楽だと感じるようになった。
色んな悪いことが待っている予感がする。予感ではない。決定事項だ。
逃げない勇気を持ちたい。