甲状腺機能亢進症と診断されたエルは、治療のために定期的に病院に行っている。
まだエルに対しての薬の適量が割り出されておらず、血液検査の結果を見て投薬量を決めているのだ。
効果が出ていれば、投薬量も安定する。効果が薄ければ増やすし、効き過ぎていたら減らす。まだ探っている段階だ。定期的に検査に行かなくてはならない。
やはりエルも、病院は大嫌いだ。
診察台に乗せられればキャリーバッグに戻ろうと必死でもがく。
何かされればブシューと威嚇し、しまいには口呼吸で般若のような顔になっている。
できればこんな負担はかけたくないが、病気なのだ。投薬量が安定するまで、辛抱してちょうだい・・・。
この日の診察は、甲状腺の他に肛門腺が破裂したのでそっちの治療もあり、エルのストレスは相当なものであった。可哀相だから血液検査は別の日にして下さいと言いかけたが、もう一度来る負担を考えたら一度に済ませてしまった方がいいのかもしれないと思い直した。
検査のために、エルを引き渡す。私は待合室で待つ。
この病院には、待合室に猫専用のスペースがある。小さいスペースだが、いつも空いているので私はこちらで待つことが多い。
この日は珍しく、先に女性がひとりで座っていた。私はひとつ席を空けて、隣に座った。
彼女にも、猫はいない。同じように猫待ちをしている模様。
私も彼女も、スマホをいじっていた。
待っている間に犬猫談義が始まるのが動物病院の待合室だが、慣れない人と話すのは苦手だ。私はいつもスマホで他人をシャットアウトしている。
長い時間が流れた。
エルはどうしてるんだろう。混んでるのかな?先に待ってたこの人の猫が戻らないことには、エルも戻らないだろう。
スマホでは、パズルゲームが進められていた。本命のゲームは他にあるが、呼ばれたらすぐにやめられるものがいい。
その時、ギャアアアアッという断末魔の叫び声が、診察室の方から響き渡った。
この声。
思わず私はスマホから顔を上げた。隣の女性もスマホを手放した。ギャーという叫び声は、つづく。
隣の女性は腰を上げ、一歩前に出た。いや、違うよ、これはエルだよ。私は彼女を見た。そして彼女も私を見た。
「うちかも・・・。」私達は同じことを言った。
しかしこれはエルの声だ。私は彼女に安心して欲しい。「いえ、うちです、この声。」
そう言っている間にも、叫び声は響き渡る。そのたび私の胸も、引き裂かれそうになる。
しかし彼女の表情も、私と同じだった。きっと、同じ気持ちなのだろう。可哀相に、早く帰ってきて。
「辛いです。」と言うと、「診察室に入りたくなります。」と彼女は言った。実際一度立ち上がったぐらいだ。そばに行けるなら行ってあげたい。気持ちは良く分かる。
やがて静かになり、ほどなくしてエルがキャリーに入れられて戻ってきた。やっぱりエルだったんだ。
「すみません、ずいぶん暴れたみたいで。」と言うと、看護師さんは「え?」ととぼけた顔をした。
「凄い声が聞こえてました。」と言うと、「そんなことなかったですよ。エルちゃんの検査はあっちでしてましたし、静かでしたよ。」とのこと。
エルじゃなかったのか。エルの声にそっくりだった。というか、もしかしたら猫の叫び声はみんな一緒なのかもしれない。
一安心したが、ということは・・・。
私は隣の彼女を振り向いた。しまった、聞こえていたか?
会計の準備をするためにエルを椅子に乗せると、彼女は覗き込んで「可愛い」と言ってくれた。これも動物病院あるあるだ。
「もうおばあちゃんなんです。」と言うと、彼女の猫も同い年だったのだ。
「辛いけど、一日でも長く一緒にいられるようにお互い頑張りましょうね。」そう言って別れた。
本心はそうではない。長く生かすために、苦しめたくはない。
今回の検査の結果は数値が悪く、薬は増え、次回の検査は一週間早まった。
私のしていることは、正しいのだろうか。
エルはキャリーの中で、ハァハァと荒い口呼吸をしていた。