猫のご飯というものは大きく分けて、「カリカリ」などと呼ばれる乾燥餌と、レトルト状にパウチされたツナのようなものとに二分される。
カリカリなら容器から出すだけで済むので断然楽なのだが、風味が薄いからか食いつきが悪い。
そこでレトルトを出さざるを得ない訳だが、コスト的にできるだけカリカリを多くしたいのが飼い主の本音だ。なので、カリカリにレトルトを混ぜている状況であった。
カリカリは大袋からコンパクトな出しやすい容器に移してあるので、サッと出る。
そこにレトルトを30%ぐらいの割合で混ぜる。混ぜすぎるとレトルトの主張が減るので、ざっくり形を残さなくてはならない。
そしてレトルトの中にもハズレがあったりすぐ飽きたりするものがあったりし、そんな時は「絶対に食べる神レトルト」をさらに混ぜることになる。
一度に食べる量が多いと吐くのだ。多からず少なからず。そしてそれは猫にとって、多くはない。猫はすぐにまた、「くれ」とやって来る。何なら神レトルトの日など、すぐに「おかわりくれ」だ。カリカリを入れ、冷蔵庫からレトルトを出し、口を止めているクリップを外し、混ぜ、閉じ、しまう。これをまたもう一度だ。無視もできるが、できるができないのが飼い主の泣き所である。
彼らは私より先に死ぬ。死んだらもう、食べさせられないのである。今しかその時はない。そして私は、猫達に愛されたい。無視できる理由がない。だから奴隷になっている。
ところがこの手間のリピートは、2匹いるので2倍なのだ。
同時に来れてくれれば単純な2倍だが、微妙な時間差で来ることも多く、「よっしゃ、エル飯終了」と振り向いたところで大五郎がやって来るところだったりした時の気持ちよ。
「勘弁してくれ」という本音と、大五郎の期待を裏切れない良心と、言葉にすれば「ああ!!」に尽きる。
そしてこれに、犬がセットになっているのだ。
犬だって食べたい。猫ばかりなんで一日に何度も食べられるの。そんな理不尽な視線をあからさまに感じる。
かと言って、その都度犬にもご飯をあげる訳にはいかない。ミッツの食事は1日2回。それでも家に来た時より3キロも太ってしまったのだ。
そもそも猫のおねだりの回数だ。少なく見積もっても1日1匹あたり8回ぐらいか。もうこの時点で異常だと思うが、これでも猫の体重は変わらないのだ。適正と言っていいのだろう。
猫には適正だが、犬に付き合わせる訳にはいかない。しかしミッツの視線も痛いので、しかたなく猫のご飯を混ぜたスプーンを舐めさせている。
思えばそもそもは、猫4匹だったのだ。先住はおねだりもすさまじかった。
2匹になり手間は半分になったとはいえ手を抜きたくないのは、もう先に死んでしまった2匹にご飯をあげられなくなっってしまったという気持ちから来ているのかもしれない。
食べてるうちが華だ。今しかできないこと。
しかしホントに良く食べる。「今が華」「今が華」と念仏のように唱え、無になるのだ。