本当のことなんて、分かるものはいくらもない。確かなのは自分の気持ちぐらいだ。
「気がする」のはあくまでもほんの一面を見ての判断に過ぎず、その中がどうなっているのかなんて実際には知りようがないのである。
「大丈夫、気にしないで。」と言ったその実、凄く我慢しているのかもしれない。
その人が素っ気ない理由は、全然自分とは遠い所にあるのかもしれない。
目に見える事すら、結果は想像の範疇を出ない。確かなのは自分の気持ちぐらいじゃないか。
それでも他人の自分に向ける嫌悪、悪意、といったものに触れるのは、堪える。
それだって本当のことは分からないのだ。考えるだけ無駄だ、そんなものはスルーするに越したことはない。
そんなことに消耗するより、楽しいことに没頭するが勝ちだ。
それが自分の生活に干渉しない限り。
実際に向こうからやってきたら、その時考えればいい。
最悪を考えて、生きて来た。
もしこうなってしまったら。常にそれに備えていないと不安だった。
備えあれば憂いなしと言うが、備えるということは不安に対峙するということで、備えれば備えるほど不安に時間を持っていかれるということでもあった。
それで備えができて憂いは消えたのかと言うと、そうでもない。
憂うネタなど、いくらでも転がっている。確かなものが自分でしかないのだから、それ以外は全て不確かであり、いくらでも不安要素になり得るのである。
そして備えは一件につき一備えではまた不安で、結局際限がない。
際限のない不安と際限のない備えに囚われ、結局楽になるための思考が自分を不幸にしていた。
スルーだ。
どうせ本当のことが分からないのなら、何かが起こるまでスルーする。
もしかしたら「遅かりし」のこともあるかもしれない。
もともとそうなる運命だったと思って、諦める。
スルーと諦めで、ずいぶん生きるのが楽になった。
スルーと諦めなんておよそネガティブな人生のようだが、案外私は今、幸せだ。
ある日、自転車のタイヤに小さなクギが刺さっていた。
車輪が回るたびにカツンカツンと音を立てるので、気が付いた。
昨日までには、なかったはずだ。
後輪。
踏むなら前輪じゃないか?
普段私の自転車は、後輪を道路に向けて停めてある。
そして袋小路の私道沿いなので、通る人は限られている。
これは故意のものなのか。一度考え出すと、思考は悪い方へと向かって行く。
色んな顔が浮かぶ。いや、もっと怖いのは、その顔が予想外だった場合だ。
当り障りなく生きて来たつもりなんだけどなぁ。本当に、悲しい。何がいけない。
ネットで検索をかける。パンク、後輪、クギ。
自転車の後輪にクギが刺さるということは結構良く起こる出来事のようで、私のように不安になった人の相談をたくさん見ることができた。
それによると、そもそもクギが上を向いて落ちていることは少なく、前輪が踏んで跳ね上げ、それを後輪が踏むことが多いらしい。どのサイトも、いたずらの可能性は前輪の方が高いと答えていた。
「悪意があるなら、もっと大きいクギを刺すんじゃない?」
酔った勢いで”また”弱音を吐いた私に、ダンナは言った。確かに。
いずれにしろ悩もうが悩むまいが、答えは分からないのだ。
私は昔話に出て来る阿呆のように、自分の世界に浸っていれば何も憂うことはない。
無敵じゃないか。星取ったマリオだ。
スルー。
右手を上げてジャンプした先に、それはある。
音楽が倍速に変わった。
無敵になる。