「仏壇なぞバカバカしさの極みだ」と言って憚らなかった母は無宗教であり、そんな環境で育った私もやはり無宗教で仏壇なぞに何の思いもなかった。
実家にあった父方の仏壇は無残な放置状態、「これどうするんだろう?」と不安の種であった。
まぁそれでも私は母程ドライではない。御先祖様に神様だ、それなりに敬意は払いたい。
だからこそ、煩わしくもあるのである。
何の思いもないのに、敬意を払わなくてはならない存在。
どうでもいいのに放置できないのである。
ダンナの実家にも立派な仏壇があり、すでに「よろしくね」と言われている。
毎朝ご飯とお水、頂き物などがあればお供え。
できる気がしない。
でもやらないと、何だかバチあたりである。
数年前にダンナの生母が亡くなった時、位牌を作ったのでそれを置く場所が必要となった。
なので仏壇ならぬ簡単な仏スペースを作ったのだが、恐れていた苦行が始まるかと思いきや、それは自然と習慣になっていったのだ。
義母は他人ではない。「敬意を払う」などという前提などなくても寄り添えるのである。
そしてほどほどなぁなぁだ(笑)
正しい作法など知らない。知るとそれこそ縛られて苦行になるので、自然にこうして向かい合えた方がむしろお互いにいい関係でいられる気がするのだ。
朝、義母に挨拶して始まる一日は、何となく気持ちがいい。時に報告やお願いなんかしたりして。
やがて、愛猫が死んだ。
遺骨となり小さな骨壺に収められたラッキーを、仏スペースの上に置いた。
寝る前に骨壺の上に手を置いて「おやすみ」と語りかけると、まるでそこに魂がいるような気持になる。
あぁそうなのか。私達には亡くなった人に語り掛ける「何か」が必要なのだ。形のある「何か」。
母が亡くなって一年ほど経った頃だろうか。掃除をしていて小さなフォトフレームが出て来たので、何となくそこに母の写真を入れてみたのだ。そしてそれを仏スペースの上に置いた。
こうすると今度は、母に語り掛けるようになる。
少しずつ風化しそうになっていた母が、朝に晩にその存在を近くに感じるようになる。
形は違っても、これは私の仏壇なのかもしれない。
そして仏壇の存在意義を知った気がする。
単なる儀式ではなく、亡き者に思いを寄せる。
置いていかれた者への、神の哀れみ。こうしていつまでも繋がっていられるよう。
母がバカにしていた場所に今母が収まっているのが可笑しいが、大切なのは、父が語り掛ける場所があるということだろう。
自分に手を合わせている父を見て、そんなに悪い気もしていないんじゃないかという気がしている。