「という訳で急だけど、午後、仕事を早目に上がれないかな?」とダンナに言われたのは、確かに急であった、4、5日前である。
会社でチケットをもらったと言うのだ。
東京公演。杉並公会堂。
誰の?
エレルヘイン。
何だそりゃ?
もちろん私はその正体を知らなかった。
エストニアの少女合唱団である。
まぁ、音楽は好きだ。
クラシックも好きだし、聞くと結構有名な合唱団らしいじゃないか。
珍しい展開に、ちょっと心躍る。
しかし不安。
合唱団の公演。
ずいぶん前だが、母とオーケストラのコンサートに行った事がある。
何を聴いたのかはもう覚えてもいないが、良く覚えているのはあの苦痛である。
私は結構まじめに聴き入っていた。
母もまじめに聴き入っていた・・・はずなのだが、隣を見るとなぜか母は前かがみになっていた。
どうしたんだろう?
母は体を前に折りたたんだまま、なかなか体を戻さない。
私は自分も低くなって母を覗き込んでみた。
それで分かった事は、母はブーツを脱ごうとして四苦八苦しているという事であった。
何で急にブーツを脱ぎたくなったのかも理解できないし、必死になっている母も滑稽だし、ちょい待ち、これはちょっとヤバいかもと思ったらついに母の肩がクックッという音と共に揺れ始めた。
コンサートの演奏中である。絶対に音を立ててはいけない。
そのプレッシャーが追い討ちをかけて、なお可笑しい。
二人して屈んだままクックック・・・と声を殺して泣いた。
そうなのだ。
何度か書いているが、私は笑いを堪えるプレッシャーに非常に弱い。
このシチュエーションが危険なのは分かりきっている事だったので、私は努めてその辺の事を考えないようにした。
自分がそんな性質であることを忘れるのだ。
純粋に合唱を楽しめばいい。
期待を裏切らない素晴らしい合唱だったので、しばらくは私も没頭できた。
しかし引っ掛かっているものがある。
それはもうすぐ来る。
プログラムNo.6。作曲者は日本人である。
タイトルは「紀州の殿さん」。殿さん(汗)・・・。
この時は作曲者がステージに上がり、自ら指揮をとった。
細身のおしゃれな芸術家、といった風貌だ。
笑顔を振りまき、親しげなトークを投げかける。
この人が「紀州の殿さん」を・・・。
その歌の中で私が理解できた言葉は「殿さん」と「お茶漬け」だけであった。
いわゆる「よなぬき」という和風のメロディに乗せて「殿さん」「殿さん」と金髪の美人が右から左から繰り返す。
他の言葉はなまってしまってよく分からない。
分からないが分かってしまった次の言葉が「おちゃづけ」「おちゃづけ」である。
私は殿さんやお茶漬けの事は忘れるように努めた。
美しいコーラスだ。
日本の歌も歌うんだ。
でも歌詞は聞き取れません。
「殿さん」とか「お茶漬け」とかは聞こえません。
やっとその曲が終わったら、次の曲のタイトルは「ちーちーちったんこの」であった。
これはもう100%危険である。
案の定「ちーちーちったんこー」「たんこー」と金髪美女達は繰り返した。
黒いドレスをまとい、大きな楽譜を手に、「ちったんこー」「たんこー」。
ドリフの合唱みたいだと思ってしまったらもう限界である。
松下耕さんよ、あんた、なんでこんな歌詞にする?
なぜに聴衆に試練を与えるのか??
しかし「ちったんこ」でピークを迎えると、後は普通の美しいコーラスである。
第2部には皇后陛下もお越しになり、素晴らしい公演は終わろうとしていた。
ところが最後に親善と称して日本の少年少女合唱団が出てきた。
関係者が見ると失礼になるので多くは書けないが、まぁアレである。
だいたい服装も赤のベストとネクタイに白の上下だ。漫才師か。
もうちょっと何とかしないと日本の合唱界は発展しないのではないか?
歌を始めたくても「コーラス」のイメージがあれでは、担い手が増えていかないような気がするのだが。
まぁいろんな意味で楽しんだ夜であった。ちったんこの。