人間のクズ!

敵は自分の中にいる。ちょっとだけ抗ってみたくなった、ぽ子55歳。

ニンニクブレス

しくった・・・・・。

今日は美容院の予約を入れてあったのだ。

それをすっかり忘れ、あろう事か昨日の晩のラーメンに生ニンニクをタップリ入れてしまった。

ううっ、我ながら臭い。

ブレスチェッカーは「結構臭いっす」のレベル4を示していた。

ぽ子はニンニクが大好きである。

良く誘惑に負けて、翌日の事を顧みずに大量に食べてしまう事があるが、大抵翌朝は開き直っている。

仕事ならマスクを着用し、潔くカミングアウトするようにしているし、あまり会わないような人に対してはどう思われても気にしなけりゃいい。

今日の場合はどちらかというと後者に当てはまるが、実はそんなに簡単に割り切れないケースであった。

例えばシャンプーなんかしてくれるようなその他大勢的な店員なら、臭いと思われようがお互いこんな日のことはすぐ忘れるだろうからダメージは少ない。

しかし、私には担当の美容師がいる。

腕がいいので毎回指名しているのだ。

・・・その彼は、イケメン美容師である。

細身で物静かな彼は、どんな美容師もそうであるようにオシャレである。

私はお喋りな美容師が大の苦手だか、彼は本当に静かである。

とてもシャイな感じで、時々「へへ・・・」とはにかんだように笑う。

メガネをかけていて、まぁハッキリいうとド・ストライクなのだ、ぽ子の好みの。

しかし誤解がないように言うが、腕がいいから指名しているのだ。

私は慣れない男性に髪や体を触られるのは嫌だし、男の美容師が相手だと何となくテレ臭くて恥ずかしい。

それなのに彼、松本さんを指名するようになったのは、たまたま新聞に入った美容院の割引チケットを持って行ったら、たまたま松本さんが髪を切り、それがとても上手かったからその後も頼むようになったというだけの事である。

失礼な言い方だが、どんなにイケメンでどんなに私好みだろうと、彼は単なる性能のいい髪切りマシンである。

しかしだよ、こんなにニンニク臭くっちゃ、機械と割り切れない自分が出てくるのだ。

私専属のマシンなのだ。

もとい、私が彼専属なのか。

とにかく、もうしっかり顔を覚えられているし、白髪の数も耳の後ろも良くご存知の事だろう。

そんな彼に「ニンニク臭い」という情報をインプットしたくはない。

しかし後の祭り。

午前10時、美容院の前にいる私は我ながらニンニク臭かったし、今さらどうしようもない。

向かいのコンビニで「ブレスケア」という錠剤を5、6個噛み、「舌キレイ」というアメを2つ口に放り込んでドアを開けた。

「今回は早かったですね。」

ほら見ろ~~。

ちゃんと彼は私の事を覚えているのだ。

もしかしたら惚れているかもしれない。

あぁますますニンニク臭に気付かれたくない。

私はできるだけ小さな声で、最小限の会話で済ますように努力する。

幸い彼は無口だし、私も本を読んでいたのでほとんど会話はなかった。

しかし髪を切り、染め、その後シャンプー台にいざなったのはなんと松本さんであった。

彼は「チーフ」と呼ばれていた。

髪を来る間にも「チーフ、どうします?」「チーフ、終わりました」と若い子たちがちょこちょこ現れたが、つまり結構偉い立場にいると思われる。

なので、松本さん直々にシャンプーをしてもらった事はこれまでなかったのだ。

今日は忙しかったのか。

やばい、シャンプーとなると、顔の距離が近くなる。

髪を切ったりしている間は彼は私の後ろ、つまり私の口の後ろに立っていたが、今度は口の前に回るのだ。

口臭の排出口の。

ダンナから聞いた話だが、床屋で洗髪するときは、下を向くようにうつぶせの向きになるらしいが、美容院は逆である。

仰向けに寝るのだ。

そのまま頭を洗面台に乗せ、美容師が覆いかぶさるように頭を洗う。

異例の事態に泡食ったが、時はどんどん流れている。

横になった私に白い布がかぶされ、私のニンニク臭に気付いているのかいないのか、彼は無言で頭を洗い始める。

私は布の下で薄目を開けた。

この布はガーゼのような薄い布のようで、透けて向こうがうっすら見える。

正面に、松本さんだ。

私は息を殺す。

呼吸を浅くゆっくりする。

つい、吸うより吐く方が少なくなってしまい、息苦しさに時々モファ~と大量に吐き出す事になってしまう。

松本さんにかからないように、少しでもルートがずれるように、私は心持ちアゴをひいた。

首が疲れ、肩が凝り、息苦しい。

早く終わって欲しいが、美容院のシャンプーというものは、無駄に長い。

まるでシャンプーの時間=サービスと言わんばかりだ。

ぽ子の髪の毛は年々少なくなってきているので、そういう意味でもヒヤヒヤする。

と、突然、フワッと顔に抵抗がなくなった。

顔にかかっていた布が落ちたのだ。

この、顔に布をかける理由はおそらく客の「顔を見られなくない」というところからだと思うのだが、そうなのだ、これがないととても困るのだ。

私と松本さんの目がバッチリ合ってしまう。

「ごめんなさい、流れちゃいました(笑)」

彼は「ヘヘ」といつものようにはにかんで笑ったが、これに対して私のとるべき態度は「ドンウォリー、気にしなくていいのよハニー」である。

頭部が下がるように仰向けになっているために、言葉を発するにはいつもより力がいる。

なので喋るときに排出される息が倍増されそうで、私は言葉が出せなかった。

その代わり「ウフフ」と笑うことで返そうと思ったのだが、その方がはるかに排出量が多いと思い知ったのは笑った直後である。

情けない気持ちで鏡の前に戻ると、マッサージである。

何と、これも引き続き松本さんがやる事になった。

何だか私如きのオバサンへの雑用を、店のチーフ様にやらせていることが非常に心苦しい。

彼は私の頭をもみ、肩に手をかける。

髪切りマシンだったのだ、彼は。

だからこれまでは彼を生身の人間であるとか男であるとか感じたことはなかったのだが、ニンニク臭で恥じらっているうちに、どうやら私の脳は彼を男とみなしてしまったらしい。

大きな手である。

私の肩はスッポリ収まってしまう。

ま、松本さんの大きな手が、ぽ子の、39歳のニンニク臭いぽ子の肩に・・・。

忘れかけていた甘酸っぱい思いが胸に広がる。

ところでこういうのは遺伝子の問題なのか、娘ぶー子も松本さんにベタボレである。

ぶー子の場合はハッキリと男として惚れているが、私は早く家に帰ってこの事を話したくなった。

優越感とは気持ちの良いものである。

料金は1万円だった。

明細など一切出ないので、詳しい内訳はわからない。

なので毎回胡散臭さを感じるのだが、今回は割引券があったので8千円で済んだ。

ところがこの割引券の使用期限のことを言おうと思ったら、うっかり「賞味期限」と言ってしまった。

いつもふざけて何にでも期限付きのものには「賞味期限」と言っていたので、ついここでもポロッと出てしまった。

やはり松本さんは「ヘヘ」と笑ったので、私も笑い返した。

つまりここでも口臭の倍返しをしてしまったのだ。

私は最悪の場合を考えた。

私の考えた最悪は、休憩時間や仕事の後に、「今日、凄いニンニク臭い客がきた」と話題になることだ。

その他大勢の人たちは、やがて忘れてくれるだろう。早ければ明日には。

しかし松本さんは、それが誰の事だかリアルにわかっているのだ。

一時期は忘れてくれても、次に行った時に思い出すだろう。

忘れてもらうには、ニンニク臭くない実績をひとつでも多く重ねていくしかない。

しかしぽ子は滅多に美容院に行かないのだ。

この実績を積むには、年単位の時間が必要だろう。

スプーンひとさじのニンニクの誘惑に負け、数年の時間を必要とする事態になってしまった。

もう、年齢だけは立派な大人なのだ。

ニンニクについて、真剣に考えるべき時がきている。